静岡支部より活動報告
~険しい復興への道のり~
支援者の皆さま
いつもありがとうございます。
静岡支部長の後藤です。
6月21日に仙台駅に着き、代表の金野と合流しました。
その日は、これからの活動のことなど色々とミーティングをし、全国の皆様が届けて下さった救援物資を倉庫で仕分け致しました。
翌日、倉庫に行き救援物資を車に丁寧に積み込み、食料品を買い、北上町と雄勝町に向かいました。
向かう途中に見える光景は、未だに大津波の爪痕が深く残されていました。
多少、道路は良くなったもののアスファルトで舗装されておらず、砕石が剥き出したままの車道もありました。
まだまだ復興には時間が掛かりそうです。
北上町に着くと救援物資の管理担当をして下さっている武山さんが、
「後藤さんお疲れ様です。納米里区の皆様から頂いた北上町の分の善意は、あっという間 になくなりました。皆様に本当にありがとうございますとお伝えください」
と、感謝の気持ちを込めた笑顔でおっしゃって下さいました。
その笑顔の裏に哀しみや、この先の生活に対しての不安を閉じ込めているのだろう。
そう思うと、 私は心が痛み複雑な心境になりました。
被災地の方々の心の震災は、まだ終わっていないのです。
武山さん、必ず納米区民の皆様をはじめご支援して下さった
静岡県東部の皆様に、私が責任を持って感謝の気持ちをお伝え致します。
ご支援して下さった静岡県の皆様、本当にありがとうございます。
皆様の善意は被災地の皆様にしっかりと届 いています。
被災地の皆様、納米里区の公会堂倉庫に区民の皆様が善意を次々と届けて下さっています。
7月16、17日のお祭りまで沢山の善意が届けられることでしょう。
静岡支部では、被災地の皆様が普通の暮らしを取り戻されるまで、こつこつと支援活動を続けて参ります。
「継続は力なり」です。
代表の金野と私は、武山さんに挨拶をしたあと、雄勝町に向かいました。
向かう途中に見える光景、雄勝町の光景はひどいものでした。
「復興」という言葉を口に出すのが憚られるほど大津波の残していった爪痕は凄まじく、とても厳しい現状でした。
一言に集約するならば、惨状です。
しかしながら、そのような状態のなか町の復興を成し遂げようと立ち上がり、頑張っている方々がいらっしゃいました。
熱い陽射しを浴びながら、瓦礫の撤去を必死に行っている方々。
休憩するにも日除けの大型テントがなく、
直射日光を浴びたまま体を休ませ、
熱射病で倒れ救急車で運ばれる方々。
日に、2,3人の方が熱射病で倒れられるそうです。
そんな厳しい状況下での作業、頭が下がります。
ボランティアも、瓦礫を撤去する重機や道具も、熱射病を防ぐための大型テントも、車も、全然足りていません。
仮設住宅では、ご年配の方ご家族がいらっしゃる方は
精神的にも肉体的にも疲れてしまうでしょう。
私は、そう感じました。
一刻も早く地場産業が復興し、震災で失業された方々に早く仕事が見つかり、アパートなどを借りられるよう願うばかりです。
しかし、被災地の皆さんもボランティアの皆さんも頑張っています。
「成せばなる成さねばならぬ何事も~」と上杉鷹山の言葉にもあるように、皆が一致団結して取り組んだなら、成せないことはないのです。
人と人との繋がりが薄れてきている昨今、
復興へ向けてどのような形でもいい、
助け合いの精神を持ち間接的であったとしても、
繋がり合うことに意味があるのではないでしょうか。
静岡の皆様、全国の皆様、
今こそ日本という島国の底力を世界に見せましょう。
代表の金野はじめ私ども祈望のメンバーは、
純粋に困っていらっしゃる方々のお力になりたい、
おじいちゃんおばちゃんがご存命なうちに、
全国の皆様にご協力して頂けたら幸いです。
雄勝町を後にするとき、周りの光景を見渡しました。
車が仰向けになっていたり、ぐしゃりと潰れていました。
大きな重機でさえ、潰れていました。
まるで、人類の終焉を目の当たりにしているようでした。
翌日の6月23日、仙台港付近と多賀城市を視察してきました。
驚きの連続です。
車の残骸の山、山、山です。
多賀城市の砂浜に近い松の木には衣服が引っかかったままでした。
海岸にはコンテナが半分顔を覗かせていました。
被災地では、まだまだ皆様のお力が必要なのです。
どうか、被災地の方々のために皆様の勇気と善意をお分けして頂けないでしょうか。
心温かいご支援の程、何卒宜しくお願い申し上げます。
支援者の皆様、今後とも「祈望」を宜しくお願い致します。
静岡支部長 後藤