活動報告

南三陸町の現実








祈望 東京サポート本部のメンバーと南三陸町(合併前は志津川町)に来ました。

この町にも私の知人がいます。
今回の目的は支援物資の搬送と現状の把握です。
現地の問題点の把握を兼ねて知人である竹山さんに視察を同行して頂きました。

竹山さんは今回の津波で父親を含む親族3名を亡くされました。
家も会社も流されてしまい、現在は避難所に身を寄せています。

竹山さんは社名入りの作業服を着てきました。
その作業服には竹山建設と刺繍されていました。
竹山さんは水産加工業です。
その作業服は、亡くなられたお父様の作業服で形見だったのです…。
今回の震災では多くの方々が親族や知人を亡くされています。
私の知人も亡くなってしまいました。

多くの方々が悲しみから、苦しみから、再び立ち上り、明日に向かって歩き出そうとしています。
その第一歩は、見た目は小さいものかもしれません。
でも、未来に続く大切な大切な一歩なのです。
なのに、その大切な一歩をなかなか踏み出すことができません。
町中が、未だに瓦礫の山なのです。
一日も早く生まれ育った町を復興したい!
誰もが、強く強く心に念っています。
瓦礫を早く撤去しない限り、工場を建てることはできません。
しかし、瓦礫の撤去には2年もかかるそうです。
そこには、一つの大きな問題がありました。

瓦礫の下には、行方不明者が多数おられる可能性が高いそうです。
行方不明者の捜索が最優先とされていて、瓦礫は許可なく撤去してはいけないそうです。
ですので、自衛隊の方々や警察官の方々が瓦礫を寄せて捜索を行った後に、初めてその瓦礫が撤去されます。
地元の方々は、捜索隊が寄せた瓦礫を撤去していたのでは、二度手間で時間も弄するので、瓦礫の撤去と捜索を民間で一度にやらせて頂きたいと考えています。
そうすれば、多くの方々の雇用が確保できます。

生き残った者たちで、亡くなった方々のためにも早く復興したい!
でも、行政にはその願いは届きません。
海にも瓦礫が残っています。
その瓦礫が撤去されるまでは、漁も禁止されていて、働きたくても働くことが許されないのです。

被災者は瓦礫が無くなるなるまでの間、ずっと待っていなければなりません。
瓦礫が無くなるまで2年、工場を町中に新たに建設するのに数年。
その間の保証は、現時点では行政から全くされていないそうです。
これから3年も4年も待っていなければならないのか…
その間の収入はどうするのか…

架設住宅の建設は他県からたくさんの業者さんや職人さんが来ているそうです。
なのに、地元の方々には仕事が回ってこないのです。

新潟県の方に伺った話ですが、宮城県の架設住宅の建設に新潟県の職人が駆り出され、新潟県では職人不足の減少が起きているそうです。
被災地では、地元の仕事が出来ないうえに義援金も支給されていません。
家族を失い、家も車も流され、道路は津浪で無くなり、電車もバスも通れない。
銀行も郵便局も、行政も、スーパーもガソリンスタンドも、全てが被災してしまっています。

本当に大変な日々を送っているのです。
南三陸町の方々にはまだまだ明日は見えてこないのが現実なのです。

何が正しいかは、人それぞれの価値観がある限り明確な答えは出せないと思いますが、
今は、純粋に人として何が大切なのかを多くの方々に考えていただいて、ほんの小さなことでも構わないから、自分にできる範囲で行動していただければと願っています。

代表 金野

南三陸町の現状は「震災後の宮城県」へも掲載しました。

支援活動 | 12:20 PM

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